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「七五三と晴着」と「想いと思い出」

鴫原質店の弟さんです。

今回はお盆という時期に絡めて、祖母と母の思い出に耽ることにしました。数年前に七五三を題材にして「祖母と母」が残した着物について書いた事があり、その時は7歳用の白めの着物でしたが、今回は3歳用の着物に関するお話でも。ブログを始めた年数を考えると、今回登場する着物は初登場かな(※多分)。私の長女(※初ひ孫)の為にと用意された2つの晴着が、その後、何年も何度も使い続けられる事など、恐らく祖母は想像してなかったと思う。それ以前に、ひ孫がこんなにできるなんて、あの頃(20数年以上前)は思いもしなかっただろうな。亡き母もこの子(※今回着物着てるドチビ)の産まれる前に他界してるので、こんな状況は夢にも思ってないはず。感謝の意も込めて、私達が大切にしてる(←奥様の手間により)着物のことが少しでも伝わればいいな~と願ってます。個人的な日記など、大体の人に興味が無いのは理解してるので、軽くスル~して下さい。所詮はブログの個人日記ですから(笑)。

とても天気に恵まれたその日の午前中、朝の突発的な決断により、塩竈神社へ七五三のお参りに行く事になりました。(※ちなみに凄く前の出来事です)七五三のメダルご祈祷の後に記念メダルを貰った写真ですが、チヤホヤされまくったドチビ様は、意味のない達成感に浸り、とても喜んでたな。この瞬間に「終わった・・・」と安堵するのはどの子の七五三でも同じで、個人的には満足感で溢れた行事となりました。

以前、おもらしした事やチビ助などと書いていた姉も、今ではチーママという超最重要人物に急成長を遂げてます。参拝中の二人ドチビの気分を載せながら上手に先導してくれるおかげで、参拝の道中、何一つトラブルも悲しい出来事もなく、とてもいい参拝でした。まだ幼女ではありますが、頼りになる子育てのパートナーとなってくれて日々感謝しております。

七五三といえば、マジで意味が分からないのはこの和装用の草履・・・(多分、前も書いた!)。確かにマジ可愛い!、【だがしかし!!】、大人が履いても痛みを感じそうなこの履物は、できるだけ履かせたくありません(※個人の感想です)。大人の手により運搬される草履躓いて転んで痛がる子供、着物が汚れて気持ちが揺らぐ「親」、子供が歩くのに痛くてつらい思いをするなど、そんな事に何の意味もある訳ない!。そんな思考回路になったのは先導する姉の七五三の時からで、その上の子達には100%強制で酷いことをしてきた・・・と、真摯に反省しながら、心に刻まれた痛々しい記憶を悔いながら生き続けています。

「楽しかった!」で終わりたいから、各種装備品は皆で手分けして運びますが、回りを見ると草履を手で運ぶ親御さんもチラホラみられ、どちらかというと現代的思考なのかもしれません。色んな所で写真を撮りながら参拝を楽しんだ姿がコレ・・・だけど、個人的感覚では「ステキ!!」な思い出。乱れ捲った着付け「着付けが~~」との意見も分かるけど、型にはめるのも嫌なので好きにやらせてました。草履が楽器になってパチパチ音だしてるし(笑)、そもそも腕はどこからでてるのやら。亡くなった母がこれみたらどう思うんだろう?。笑ってくれるといいんだけど、多分あきれるね(汗)。過去の常識観念も大切だと理解はしますが、そんなものは風習の変化でどんどん変わっていくので、こういうのもありなのかな~など思うようになったのは、多分「歳」のせいでしょう。

本堂に到着してから各種装備を装着!。そして母親の手を借りて、着付けも完了!。本堂の前での写真撮影この後、本堂にてご祈祷を受け、記念メダルと千歳アメを授かり記念撮影(※最初の写真ね)。尚、草履の役目はこの場所で終了ですが、記念撮影という思い出作りに不可欠な道具だと思っていた点において、私自信が風習や常識を少しは意識してた事に気が付きます。靴を履いて晴着を纏った事実を、思い出として写真に残してもよかったのかもしれない。どうせ記憶に残るのは靴を履いてるシーンのハズだから。何故「靴ではだめだったのだろう?」と自問自答を繰り返してみます。

どうでもいい話ですが、塩竈神社さんに来ると必ずやるのがこの子供おみくじ。子供おみくじ数年前まで大吉しか引かなかったのに、なんかこの数回小吉や中吉ばかり(哀)。大吉しか入っていないと真面目に思ってたけど、運が良かっただけみたい。意味など分からない子供達は「おみくじ」を引く事が楽しいみたいだけど、書いてあることはしっかり読み聞かせてます。大人にこそ、心に突き刺さる言葉が書いてあのが、教育的で興味深い。

家を出発してから終了まで、な~~~んにも無く、とてもいい参拝となりましたが、家を出る前はこんな事も。この着物は亡き祖母と母が長女へ用意してくれた晴着で、リアルに20年前の品物です。これを創ってくれた人の想い、大切に保管し続ける想い、そして着せる(使う)想いなど、長い時間を経て、色々な思考が重なり合ってるので、当然色々起こります。涙を流す幼児と着物泥んこや砂吹雪、雨や水たまりやファンデーションや口紅に子供達の涙など、思い出と成りえた色んなものが染み込んでいて、それらを今でもしっかし覚えています。帰路の車内でリンゴジュースを少し口にした後、そのまま寝落ちしたドチビが、この着物に大量のリンゴジュースを注ぎ切った事も、私の中では微笑ましい思い出に既に変化しました。車のシートもビチョビチョになって、瞬間イラっとしたけど、怒らなかったし、怒ってもしょうがないし、私の成長の証なのかもしれません。(※泣いてるとこも可愛らしく撮影してただけで、いじめてません!)

一つだけ言えるのは、20年間以上もの間、色あせが無い状態で保管し続けるのは、相当な手間と苦労が必要です。そして着用するのは僅か数時間という現実もまた、この「晴着」という品物の大きな特徴でもあり、モノで溢れる現代の感覚とは異次元の場所に存在する品物の一つであるのは間違いなさそう。そしてまた「おもい」がある故に、金銭感覚では測ることの出来ない「価値のある品物」と「私」が認識してる点も恐ろしく意外です。だって、質屋に持参したところで、北里柴三郎や野口英世(←千円札のこと)と交換さえできないから。(←【補足】製造から20年以上経過、ノリカビ、襟ジミ、各種縫製の調整跡、部分的に口紅のシミ、見た目は綺麗だけど骨董品、それでも最上級品!。)

最期に参拝の帰り道のワンシーン。普段とは違う衣装を、ドチビもかなり楽しんでくれました。晴着できめのポーズお茶屋さん(茶屋鹽竈)が時間(←16時過ぎ頃)の為に閉店しており、間食が取れなかったのも一つの思い出。「終わったらクリームの大判焼」と約束してたけど、私は嘘つき扱いされてしまいました。その代わりに買い与えたリンゴジュースが壮大な被害を生む事など、この時は想像さえしてなかったな(涙)。飲み終えてから車に載せろよ!と、この時の自分を叱りたい・・・。

グーグル先生で七五三の歴史を調べても、諸説あるようで正しい事は分かりません。ただ一つだけ思うのは、私のような一般的庶民が子供に着物(晴着)を着せるという文化は、恐らく日本が世界一のお金持ちになる過程の高度成長期(1960年代)からなのではないかと想像してます(※事実不明)。平安や江戸時代など、特権階級の方々にこの風習があったのは確認できるけど、庶民はやってなさそう。明治や大正と昭和初期においても、七五三という言葉は知れ渡ってたとして、子供のお祝いに【晴着】なんてとても想像でない。戦後復興の経済を経て、社会全体が豊になりつつある中で、モンペ(和服)などではない装飾用着物(=晴着)への憧れから、着物屋さんが全国的に大流行し、その中で今の七五三の形態が「庶民」に根付いたのではないか?、などと・・・事実不明な空想劇を膨らませます。「結婚する時に着物を持たせる」という文化が昭和の時代には実在し、「鴫原呉服店」という着物屋の片隅で、幼少期の頃から、多くのお客様に「晴着(着物)」を販売していた祖母の日常を見て育った私が感じてる事であり、事実かどうかなど関係ありません。もし、誰かに共感されるかもしれない点があるとすれば、「今時(いまどき)」という事かもしれないな。


とてつもなく良かった経済状況の中で、庶民生活に新しく取り入れられた文化(例えば豪華絢爛な大人数での結婚式や葬儀など)は多いものの、過去には常識とさえ思えてたそういう文化が、徐々に下火になっている現状をヒシヒシと感じています。「今時」という言葉が、自分の過去の知識との対比だとしたら、もしかしたら既にそういう事は一般的行事とはかけ離れた文化にさえ感じており、何かと「今時」という言葉で片づけてしまう事が多い気がします。3歳の子供用に莫大な費用をかけて「晴着」を造る事が「今時」ではないと、私もも認識しており、もしかしたら、この七五三の写真さえ「今時」とか思われるかもしれないのか?(汗)。とはいえ、「初ひ孫用に!」と着物屋の店主(祖母)が色々な想いを込めて造ったこの着物は、祖母と母を同時に思い出す形見の一つとなりました。できるかも分からない私の「孫用」になどと理由をつけて、身近に置いておきたいかな。保管するだけでも凄いコスト(←色々とお金かかる!!)と手間が必要ですが、 色んな「想い」と「思い出」に浸りつつ、生きてる限り大切にし続ける気もしてます。尚、ちゃんと書き加えておきますが、メンテナンスは奥様(※母親)がしてくれてて、私は何にもしてません。偉そうな事いうな!と怒られる予感が脳裏をよぎり、少しだけ恐怖心を抱いてしまいます・・・(哀)。

本日は以上でございます。